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​居合神社

日本一社 林崎居合神社 

日本でここだけという居合神社がある。 古くは熊野明神といい、その昔は林崎明神とも呼ばれていた。室町時代から、居合道の始祖林崎甚助重信公が祀られている。古くは江戸時代から、居合剣術の修行をする方々のお参りが多く、刀・額・ 面 鏡など、奉納されたものも数多い。 また、旧境内に奉建された石碑は、林崎甚助重信公の石碑を始めいくつもあり、現在も居合を学ぶ剣士の参詣と奉納演武が多く行われている。 

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奉納演武

毎年、神社境内にて居合を中心とした奉納演武が行われている。様々な流派・団体から沢山の方が全国から参加される。 

また、地元小学校には全国唯一の『居合道クラブ』があり、毎年6月に開催される「全国各流居合道さくらんぼ大会」でたくましい演武を披露している。 

村山市と居合道について 

居合道の祖 林崎甚助源重信公について 

1542年、現在の村山市に生まれる。幼少の頃に父が暗殺され、父の仇を討つために剣術の稽古に励むが上達は思わしくなかったという。それでもとにかく稽古を続け、1556年に林崎明神に百日参篭 (さんろう)して抜刀の神伝を授かる。※神憑り状態 になったと伝えられている。 

1559年、さらに稽古を積み抜刀の妙を悟り、 元服して林崎甚助重信と名を改め仇討ちの旅に出る。 1561年、19歳の時、京都にて仇討ちを果たして帰郷することが出来る。ここで、愛刀であった 『信国』 を林崎明神に奉納する。 『信国』は三尺三寸 (99.99cm) と云われている。通常は2尺4寸 (75.75cm) くらいが一般的であるから、相当に長い刀であった。

1562年、母が病により亡くし、重信は再び剣を抱いて旅に出る。この後、 重信公は日本全国を旅しながら多くの門弟を育て、居合術を広く伝えていった。

現在は生まれ育った山形県村山市にある熊野居合両神社 (通称:居合神社) に祀られている。 

居合道とは 

今から約450年以上も前に生まれた武道で、現代に伝わる剣道、 居合道、 抜刀術など すべての剣術のはじまりは林崎甚助源重信公の抜刀術である。「居合(いあい)」という言葉は「居合わす(いあわす) 」 が語源とされており、「立合(たちあい)」 に対しての言葉である。

「居合」 は、「戦う準備をしていない状況で、敵に襲われた場合の術』である。よって、その特徴は、刀が鞘に収まっている状態から抜刀 (刀を抜く) して攻撃するところにある。 

『その場に居たまま (日常・平静) の状態にありながら、敵が打ちかかってくるのに応じて瞬時に抜刀し、これを倒す』 ために『居合』と言われるよ うになったという。

熊野神社の由来 

熊野神社の起源は、大同2年(807)に林崎地区の東方の石城嶽(いしきだけ)の大明神沢の岩窟に、熊野権現(現:熊野神社奥の院) が祀られたことに始まります。後に林崎地区近くの旧荒宿村に遷り、熊野堂として祀られました。

熊野権現は、永承年間 (1046~1053)から正安2年(1300) の間に現在の場所に遷座し、地元の村社として林崎明神と呼ぶようになりました。

 

居合大明神の由来 

江戸時代に居合の祖と言われた林崎甚助重信公の抜刀術が全国に広がると、林崎明神は武術修行・所願成就の神として有名になり、羽州街道を通る武人からの崇敬を集めます。出羽国 (現:山形県) では新庄藩の林崎新夢想流、 荘内藩の林崎田宮流などの剣士たちが林崎村に訪れ、林崎明神に礼拝し、絵馬を奉納していきました。

庄内の幕末志士である清河八郎の著『西遊草』には、「信国」の長柄刀と剣士達の礼拝する様子が記述されています。 

後に、 重信の偉業を知った村人たちにより、境内の一角に居合大明神が祀られます。 

明治に入ると林崎明神(熊野神社)と合祀し、 明治10年(1877)に神社庁 登録され、「熊野居合両神社」が正式名称となりました。 

 

熊野居合両神社の四神 

伊弉諾尊 (イザナギノミコト) 

伊弉弥尊 (イザナミノミコト)  

素盞鳴尊(スサノオノミコト) 

林崎助重信公について 

林崎甚助重信 (1542~1617) 

居合の祖である林崎甚助重信は、室町時代後期 に出羽国林崎村 (現在:村山市林崎)に生まれ、幼名を民治丸(たみじまる)といいました。

父・浅 野数馬重治は楯岡城の6代城主・楯岡満英に仕えた武士でしたが、重信の幼少期に本家最上家の家 臣・坂上主膳から闇討ちされてしまいます。 

重信は父の仇を討つため林崎明神 (熊野明神) に百日祈願参籠した際に、氏神より抜刀術の奥義を伝授されて神夢想林崎流を開眼し、見事に仇討ちの本懐をとげました。その後、抜刀術の基礎を作りあげた重信は、東北や関東へ修行に赴き、多くの門弟を育成しました。晩年は武州川越(現:埼玉県川越市) に在住していた甥の高松勘兵衛を訪れた後、奥州に旅立ち消息不明となりました。 

※諸説あり

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